心の窓。

以前、何かで「ベトナム語には、日本でいうところの努力という単語が無い」と読んだことがある。 そのときは適当に流してしまったのだが、あとあとよく考えてみた。
似たような意味合いはあるのだろうけれど、日本人が努力と云う単語を連想するのとは、厳密に云えば 違うのかな、と。
つまりは、物事や感じたことを考える時に、ボキャブラリーが多いほど、厳密にランク分けが出来るのかなと。ふと思った。
これは、他人とのコミュニケーションに、多いに役立つわけだよね? 例えば、相手に「辛さ」を伝えたいときに、「どう」辛いのかを伝えた方が判りやすいでしょう。ただ「辛い」と云うより、「わさびのように鼻にツーンとくる辛さ」の方があきらかに伝わる。
「痛み」にしても、「シクシク」とか「ガンガン」とか「キリキリ」なんてのもある。 「シクシク」と「キリキリ」は確実に違う。感じ方も違うのは単語を知っている証拠なんだと。 そうはならないか?違うかな?
だから、活字には触れた方
がいいのは明白で、色々な人から言葉を聞くのも重要だよね。
「相手に上手く気持ちを伝えられない時」は、もしかしたら 自分のボキャブラリーの少なさが原因かも知れない。 勿論、感情が先に立つときもあるだろうけど。
だから、活字や色々な人との話とかに、沢山触れた方が良いと思うわけ。
そうすれば、自分の意識の中にいっばいコンテンツが出来ることに繋がるんじゃないかなと。

最近の子供達には、そこら辺が欠けてるように思う。だから、想像力の欠場に繋がるような気もする。
きっと、こうやって日記を書いてるって事は、脳にもいいんだろうなぁ。